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2022年9月9日金曜日

じゅごんろ~どの旅の終わり。

 すっかりご無沙汰してしまっていました(///∇//)。

皆様はお元気でしたでしょうか?

まだまだ暑い日が続いていますが、風は心地よくなってきて、
お蔭様で、元気にゆるゆると過ごさせていただいています。

ねむの木(エバーフレッシュ)のお花がポンポン咲いて、
そしてまた、ねむの木にもキラキラした雫を発見して、
舌の上に載せてみたら甘くて美味しかったです(≧▽≦)。
(良い子は真似しないでね)

なんなの?みんななんでそんなに美味しい樹液を
溢れさせているの?(@_@)


ポンテローザレモンの実も、重たげなくらい大きくなってきました♪


コブシの実を見つけたのですが、中から赤い実が出てきて、
まるで日野日出志さんの漫画に出てくる怪獣みたいです♪



ぐへへへへへへ。。。という感じでしょうか?(≧▽≦)。


ぼやけてしまいましたが(笑)、食べ終えた八朔の種を植えたら
発芽して、アゲハチョウが卵を産んでくれて、
幼虫がモリモリ葉っぱを食べて大きくなっているところです(≧▽≦)。


フリーハンドで刺繍をしてたら、「あれ?銀河?」って思ったり。


楽しくチクチクさせていただいているのですが、
昨年かなー?「ああ。じゅごんろ~どの旅は終わるのだ。」
って感覚になって、

売り尽くし?的な事を最後にさせていただこうかなとも
思っていたのですが、
ご時勢柄、どこも配達員さんが足りない状況が続いていることなどからも
なんか違うなーと思って。

誠に勝手ながら、ここいらでスッパリ閉店させていただくことにしました。

思えば、何となく付けたブログタイトルが
そのまま屋号となり、10年余りも活動させていただけました。

ネットの片隅で生息する、人間の皮をかぶった幼虫であり、
ワガママで変人で、どこの誰ともわからない私のお店や作品を
見つけてくださったり選んでくださったり
買ってくださったり。

本当に奇跡の連続の10年余りだったなぁと思います。
お客様との温かい交流が励みとなり、
ブロ友さんやツイ友さんたちにも支えられて、
続けて来れたのだと思います。

何も言わず見守り続けてくださった方にも、
心から感謝しています。

作り方を載せていますので、ブログもYouTubeも
そのまま置いて行きますね。

アドセンス?広告?を放棄しているので、
検索されにくい状態だと思うのですが、
にも拘らず、久しぶりに自分のチャンネルを見てみたら
YouTubeに登録してくださる方も微増していて、
なんだか不思議だなーって。(@_@)

私以外の人は全員、天使?とか、
私以外の人は全員、菩薩様?とか、
私以外の人は全員、超能力者?とか思ってしまうことが
よくあります(≧▽≦)。


9月6日の空です♪
ほとんど写真を撮る事もなくなって、
パソコンやネットに触れることもトンと減って、
写真のアップロードの仕方って、どうやったっけ?って
一瞬、考えてしまいました(≧▽≦)。

新しい旅に向かう準備をします♪

今まで、本当にありがとうございます。
沢山の感謝を込めて。

           じゅごんろ~ど

2021年8月12日木曜日

市松水玉の巾着(土器)と「オモウマい店」

あれ?8月なのに梅雨?Σ(・ω・ノ)ノ!
って思ってしまうようなお天気ですね。

朝は「秋?」って思ってしまうくらい涼しかったり。
こんなに涼しい8月は久しぶりな気がするので
とっても有難いです(≧▽≦)。


ということで完成しました、市松水玉の巾着(土器)です♪

なんで土器?なのかは自分でも謎なのですが(///∇//)、
何故か「土器やー」って思いました。

土器など、文化財を扱う会社で財務の仕事をしていた時に、
けっこう色々な文化財を見たのですが、
こういった形の土器は記憶には無いのですが。。。(@_@)。


今回は詰め物無しでも自立して立つタイプです。
寸法上は、縦よりも横に長いのですが、
写真ですとバケツ型で、横よりも縦に長く見える不思議なんですよね。
理論上は解るんですよ。奥行に横幅が取られているって。

そういう事じゃなくて、「そう見える」ことの不思議ですねー(≧▽≦)。


「そう見える」といいますと、
”お色の見え方”は、本当に個人差が大きいのに、
今回は写真にした時の色の出方が生地によって違い過ぎて、
ガビョーン。。。ってなりました(´・ω・`)。


こちらの色を実物に合わせると、こちらが違ってしまう的な。
ガビョーン(´・ω・`)。


上の左側はグレーで訪問着です。真ん中は小豆紫のコート地。
右は古代柄の紬の生地です。
下の左側も古代柄の紬で、真ん中は濃い藤色の雨ゴートの生地です。
右は淡い淡いペール・オレンジの訪問着の生地です。


”京藤(きょうふじ)”と呼ばれるお色に近い訪問着の生地です。


江戸打ち紐も今回は正絹で、水色やグレーに近い、
淡い藤色です。


底は、こんな感じです♪

「価格」のことなのですが、何年か前には
「ハンドメイド作品の価値を上げる為に、安売りはしないでください」
って感じのご意見を幾つか頂戴したことがあって、

当時はハンドメイド作品を販売するのが、
ちょっとしたブームのようになっていて、
「皆で、もっと価値を上げて”仕事”として成り立つように
していこう!」というようなムードだったんですね。

手作りする時間を、時給に換算するのも
何故か流行っていて(笑)、なんで時給???って
ものすごく不思議でした(≧▽≦)。

で、「時給に換算できないもの」というブログも書きました。

ある程度我慢を強いられるような仕事で時給で働かれているなら理解できるのですが、ハンドメイド作品を作って販売するということは、誰かに強制されてしている事ではなくて、作ることが好きだからされている場合が殆どだと思うので。

自分が「良いなー」と思うものを作れて、それを「良いなー」と思って買ってくださる方がいて、お客様が喜んでくださる至福は、とてもじゃないけどお金に換えることはできないと思うのです。(´・ω・`)

お金のことをキチンと考える感覚は大切だと思いますが、(生活費の多くが作ることに掛かっている作家さんは別として)ハンドメイド作品を作っていらっしゃる方々に限って云えば、「時給に換算しても何も良いことがない」と思うのです。(´・ω・`)

それは「目先のお金」で在って「利益」ではないと思うんですよね。
「利益」にはお金以外の沢山のものが混じっていて、喜んでくださる事であったり、作品がお役に立つ事であったり、作品が広まることであったり。
私の場合で云えば、それまでお客様が興味を持たれていなかった着物やお香や和色やアンティークにも、興味を持ってくださる事でもあります。お客様のご興味が広がれば、それはお客様ご自身の利益にもなるし、ご興味に関連したお店や製造されている方々にも利益に繋がる可能性があるからです。

「利益」って、現代では「お金」だけを指すように使われがちですが、本当はもっともっと広義な言葉だと思うんですよね。

損得勘定してイライラしたり落ち込むよりも、金銭的に多少の損をしても気持ちよく過ごせる方が「利益」になるように思います(*´▽`*)。
もしかしてそれが「ご利益(ごりやく)」って事なのかも(≧▽≦)?

4年くらい前に、こんなこと書いてましたねー(///∇//)。

最近、「オモウマい店」というテレビ番組にハマっていて(笑)、
出て来られる店主さんたちの溢れんばかりの個性や哲学に
毎回、新鮮な感動があって、
なんだかとてもスッキリした気分になるんですね。

ご時世柄、「みんな大変だからさー」って、
店主さんご自身が他のバイトをしながら、
お店に来られる方々に0円のお弁当を提供されていたり、

「お腹いっぱいになってりゃ人間は悪いことしない。」
という信念のもと、てんこ盛りのサービスをされていたり。

「もうとにかく、いっぱい持って帰ってもらいたいだけ。」
「来てくれるお客さん、みんな無料にしたい。」

そんなことを仰りながら、計算するのが面倒だからと
更にお会計で値引きまでして、
お客様から遠慮されると「騒ぐんじゃねーよ!」って
一喝する店主さんとか(≧▽≦)。

強面の店主さんもいらっしゃるのですが、
ほとんどの店主さんが、ずーーーっと笑ってらっしゃるんですね。
誰かの為にー!とか、良いことしてるー!という
押しつけがましさが一切なくて、
「自分がそうしたいからしてるだけ」という軽やかさ。

先日の74歳の女性店主さんは、
59歳からおでんのお店を始められて、
「お金の計算はできないけど、人生の計算はできるの。
こう在りたいなぁという在り方になってるから。」
と仰りながら、注文以外のおでんの具も、
「嫌いなものない?」って聞きながら、
どんどん袋に詰めていかれます(≧▽≦)。

若い女性たちが、「私もこんなお店がやりたい。」とか
「心の宿り木だから。美味しいのもあるけど、
ずっと続けて欲しいから買いに来るの。」って仰ってたり。

「お金の計算ができないと騙されたりしませんか?」
という質問にも、
「騙して気が済むなら騙せばいいよー」という
肝の据わったお返事(≧▽≦)。

「儲けなんかないよー。いいんだもん。」
という店主さんたちが、ずっと笑ったはるのは、
お金以外の利益を、たくさん受け取っていらっしゃるからではないかなーと思います。

私も一時は、いろんな方のご意見から値上げしてみたこともあるのですが、
結局、「やっぱりなんか違う。私、こんなことしたいんじゃない。」
という結論に至りました(笑)。

「1円でも多く利益を上げるのがビジネスだ!商売だ!
その利益で展開を広げて、どんどん利益を増やすんだ!」
というのが、これまでだったと思うのですが、

やはりもう時代は変わっていると思うんですね。

ということで、じゅごんろ~どは値下げすることはあっても、
値上げすることはありません(≧▽≦)。
ハンドメイド作家さんとして名を上げるような野望も無く(笑)、
”てづくりすと”として相変わらず、ちんたらぽんたらと
ちょっと変な不思議なものを作り続けていくと思います(≧▽≦)。

市松水玉の巾着(土器)、それぞれのお店に出品しています♪


2021年3月2日火曜日

映画「すばらしき世界」※ネタバレ注意

 


先日、観に行ってきました(∩´∀`)∩。
場内に入る前に、機械の前に立って、
おでこに照準を合わせて「ピ!」って熱を測られて(笑)、
36.0と表示されました。

「おお。こういうシステムになりましたかー。」と
感慨深くなりつつ、無事、入場を果たせました(笑)。

「サワコの朝」に主演の役所広司さんが出演されていて、
観に行きたくなったのでした。

物語は、元ヤクザ者で殺人の罪で刑務所に入っていた
三上さんという男性の出所直前から始まります。

直情的で鉄砲玉気質=まっすぐな三上さんは、
持病を抱え、不安を感じながらも、
出所後は周りの人たちと少しずつ交流を深めていきます。

最初は偏見の目で三上さんを見ていた人たちも、
この社会で生きて行こうとする三上さんに、
それぞれの立場から、それぞれの情を持って、
三上さんと接するように変化していきます。。。

原作は佐木隆三さんの「身分帳」。
孤児院で育ち、人生のほとんどを少年院や刑務所で過ごした
実在の人物のお話しです。

佐木隆三さんの本は、10代か20代初めくらいの頃に、
当時はまだ少なかった犯罪のノン・フィクションとして、
殺人百科シリーズなどを、コリン・ウィルソン等の本と共に、
よく読みましたね。

コツコツとした取材力で、点を線に繋げていく人という
イメージでしたね。

映画の中の主人公の三上さんは、
湧き上がってくる熱に身を委ね、
ケンカ相手のお腹のお肉を噛み千切ろうとしますが、

それを見ていた、三上さんを取材中の
テレビ・ディレクターの女性はニヤニヤしながら
サイコパス感満載でビデオカメラを回しますが、

取材に同行していた小説家志望の男性は
恐怖のあまりにビデオカメラを奪い取り、
現場から逃げ出します。

同じ「取材者」という立ち場でも、
それぞれの道に分かれていきます。

生き抜いてきた環境から自分を支えてきたであろう、
美学や信念を変化させていく三上さんは、
苦悩しながらも真摯に、”現代社会”とされる世界に
馴染もうとします。

生真面目で丁寧な仕事をする三上さんは介護職に就き、
その現場で、知能が遅れているとされる青年と
心を通わせますが、

その青年が小突き回されている場面に出くわしても、
ヤクザ者が馬鹿にされている会話にも、
怒りを堪えます。

そして、その青年が嵐の前の強風の中で、
「嵐が来る前に摘み取った」コスモスを、
三上さんに「持って帰る?」とたずねます。
いつもの、満面の笑顔で。

たくさんのやりきれなさを抱えて、
それでも黙って生きていこうとする三上さんを、
美しいなぁと思いました。

先日、紙の方の京都新聞に、
山口組を50年以上取材されてきた
溝口敦さんのインタビューにも書かれていましたが、
組も終末期を迎えていると。

そして日本の習俗である仏教も神道も
新興宗教も信者を減らしている現代、
宗教もヤクザ社会も必要としない時代に
入ったんだと思うと。

人口減少や出生率の低下を見れば、
どんな団体も縮小したり消滅して、変化していくのは
当然といえば当然なのだなーと思います。

どんな時代にも、はみ出し者たちは存在したし、
これからも存在はするのだと思いますが、
姿形を変えていくのは、はみ出し者たちよりも
社会全体なのかも知れませんね( *´艸`)。

「ホテル・ムンバイ」を観た時もそうでしたが、
今回の「すばらしき世界」も、
沢山の課題を与えられたように感じた映画でした。



2020年12月31日木曜日

川口まどかさん「やさしい悪魔」(漫画)

 

川口まどかさんの漫画は、何度か?紹介してきたと思うのですが、
いろいろ整理していてパラパラと捲りますと、
「あー。”やさしい悪魔”も紹介しておきたいなー♪」と思ってしまったので(笑)、
大晦日に全然関係ないのですが(笑)、紹介をば。

”悪魔”って、人間界のイメージでは、人の心を誑かして破滅へ導いたり、
人間が壊れていく様を見ても眉ひとつ動かさない冷酷無比な存在で、
むしろそれを喜びとするようなイメージだと思うのですが、

「やさしい悪魔」は、タイトル通り、やさしいです(笑)。
まず、人間の願いを叶えるのにお金しか取らない。
命や魂ではなく、お金です(≧▽≦)。

しかも依頼人の支払える金額に応じて、
「この願いに対して、この金額しか払えないのであれば、
依頼人であるあなたには、沢山の労力を使っていただきますし、
危険も多くなりますよ。」
という、とても”やさしい”システムとなっております(≧▽≦)。

”続やさしい悪魔”の一篇にある物語なのですが、

女子校育ちの少女が、離婚や不倫、詐欺やナンパで遊ばれて捨てられたりしないように、
男性を見る目を養いたい!将来の傾向と対策の為に
男性の私生活をテレビを見るように覗きたい!と
やさしい悪魔に依頼します。

支払える金額が少なかったので(笑)、
魔法の指輪を嵌めて、興味の有る男性を思い浮かべると、
その男性の”人面瘡(じんめんそう)”となって、
生活を覗き見ることが出来るようにしてもらうことに(≧▽≦)。

そして一目惚れした男性の肉体に潜込み、人面瘡となって観察しますが、
男性に見つかって捕まってしまいます。

人面瘡の少女から事情を聴いた男性は、
「いろんな人を知らないと失敗してしまう」と言う少女に
「失敗して何が悪い?」と問います。

「なにが成功して保証されるんだ?」と。
その男性はチャラい見た目からは想像も出来ないような、
とても沢山の、過酷な経験をしてきた男性でした。。。

続きは是非、読んでみてください(*´▽`*)。
あ。ホラーですので、一応、死や暴力、血肉もあります(笑)。

あれー???リンクを貼ろうと探してみたら、
「続やさしい悪魔」が3万円くらいばっかりなんですけど?
どゆこと???(@_@)
レアなんでしょうかねー???

「成功」ってなんだ?という記事にも書きましたが、
人間として生まれてきて、
どんな人にとっても”初めての人生”なのに、
一時的な経過を全てのことの様に
「成功」「失敗」と決めつけてレッテルを貼るのは
なんだかとても不思議なシステムだと思います(笑)。

同じように整理していて、10年くらい前の京都新聞の記事かな。
養老孟司さんの「インフル騒ぎ」というコラムに書かれていたのが、

「今の人は死なないつもり。よくそう思う。
なにごとも理性的にきちんと対応する。それで当然だと
信じているらしい。

でも薬に万能薬がないように、生き方にも万能薬はない。
すべてをできるかぎり予測して、それに対応しようとするのが現代人、
つまり文明人だが、それなら自分の背中に自分の命日を
書いて歩いてくれ。そういいたい。

自分の寿命の予測もつかないのに、
あれは体にいい、これは体に悪いと、
よくあれこれいうなあ。
自分の知恵に溺れているんじゃないか。」

自分のちっぽけな知恵に溺れて、成功や失敗を気にしても、
正解や間違いを探しても、あれが良い、これが悪いといっても、
人間は自分の寿命すら知ることは出来ないんですよね。
なんてこったい(≧▽≦)。

ということで?
本年もありがとうございました(≧▽≦)。


2020年11月28日土曜日

白と黒のカオスと「セール」考

 はうっ!(@ ̄□ ̄@;)!!

と気付けばまた半月ぶりくらいのブログになってしまいました💦

ご無沙汰しております💦

粛々とカオスりながら


白と黒を進めています(*´▽`*)。

もう既にですね、あまりの可愛さに一人で鼻血ブーってなりそうになりながらチクチクと縫っています♪

新しいお洋服も縫い進めながら、こう。。。螺旋を描くように、今日は、あの作業。今日は、この作業。と進めていますので、ちんたらぽんたらしていて、すみません💦

今日の紙の方の京都新聞夕刊に、「セールって、いったい誰が得するの?」というブラックフライデーに対するカウンター記事?みたいなのが掲載されていて、

服作りをされている方々や、小規模の契約農家さんのお野菜を配達で販売されている方のお話しが紹介されていたのですが、

やはり規模を広げ過ぎないこと、「セールは新規のお客様を増やす手段のひとつで、新規のお客様を求めていないから、セールしません。」って感じのことが書かれていたんですね。

在庫を抱えたくないとか、在庫をはけさせたい、ということから「セール」になると思うのですが、服作りをされている方々は、「昨年作った服だから安くなる」という考え方が、「?」なんですね。

昨年作られた服でも、丁寧に作られた服の可愛いさは減らないし、楽しい服は楽しいし、着心地が変わる訳でも無い。食べ物の様に腐る訳でも無い。それなのに何故セール?

価格を変えると、お客様の目が「服」ではなく、「価格」に行ってしまうからセールをしない、とも書かれていました。”素敵な服”ではなく、”価格が下がった服”になってしまうんですね。

いろんなものが使い捨ての時代で、その方が衛生的な場合もありますし、お仕事上、作業着みたいに、服も使い捨てにならざるを得ない方々もいらっしゃいますが、

流行りの服が安い価格で手に入るようになった、その向こう側で起きていることにも、今の変化は、じわじわと影響を与えていくことになると思いますね。

私は体に合うお洋服が少ないので(///∇//)、安い服でも高い服でも長ーく着ざるを得ないのですが(笑)、だからこそ、やっぱり「着心地のよさ」が、一番、気になりますね。

「セール」って、もう意識しないくらい”当たり前”になっていますが、セールとは無縁に、お仕事をされている方々もいらっしゃるんですよね(*´▽`*)。

2020年8月5日水曜日

諸行無常時代

「諸行無常」って最近では何かが変わった時に使うことが多い言葉ですが、本来は、「いつも諸行無常」なんですよね(*´▽`*)。

今日の紙の方の京都新聞夕刊に載っていた花園大学インド仏教学教授、佐々木閑(ささきしずか)さんのコラムからです。

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
「諸行無常時代のライフスタイル」

もう誰もが気づいていることだが、日本の気候は変わってしまった。毎年のように「めったにない」災害がやってくるのは、それがもう「めったにない」ことではなくなってしまったことを意味している。(中略)

私たちを取り巻く外界が私たちを苦しめる時、しかもその外界を、非力な私たちでは、どうやっても変えることができない時、一体どうすればその苦しみから逃れることができるのか。

この気候変動がつきつけるのと全く同じ問題に立ち向かったのが2500年前の釈迦(しゃか)である。もちろん気候変動を相手にしたわけではない。

彼は老いや病といった、人生につきまとう避けがたい苦しみと格闘した。(中略)
そして釈迦が見つけた答えは、「自分のものの見方を変えよ」というものであった。

同じ答えが、気候変動で右往左往する今の私たちにもそのままあてはまる。

それまで、「これが当たり前の生き方だ」となんの疑問も持たずに暮らしていた価値観や世界観を一旦捨てて、本当に正しい在り方とはなにかを、根本的に問い直す。

世の人が揃って「そうだ、そうだ」と賛成するような生き方に追従せず、自分だけの道を探してゆく。
その先に初めて外界に左右されない真の安泰が生まれる。

釈迦の場合ならば、皇太子という、社会的に恵まれた地位を捨て、普通の人は嫌がるような、粗末で困難な暮らしをあえて選択し、その結果として、我欲に振り回されない真の自由を手に入れた。

「いつまでも今のままの暮らしを続けたい」という執着がなくなることで、雲のように、水のように楽々と生きることができるようになったのである。

毎年の災害が避けがたい現象であるなら、それを受け取る私たちの生活基準を変えるしか苦しみから逃れる道はない。

家を持っているのは幸せで、持っていないのは不幸。便利な暮らしが良い暮らしで、不便な暮らしは駄目なこと。皆がほしがるものが手に入るのは幸せで、手に入らなかったら不運。
大勢が「あれが良い。あれが素敵だ」と言っているものが良いもので、話題にならないものはつまらないもの。

こいった考えを一旦ぜんぶ白紙に戻す。そして「毎年必ず大きな災害が来る」という前提で、ライフスタイルを念入りに考える。我欲をはさまず、客観的に考え抜く。

そうすると、当たり前の暮らしの向こうに、全く違う暮らしが見えてくる。それこそが災害に負けない新しい生き方というものである。

そんな新型ライフスタイルの発表会をやってみても面白い。私たちに真の安楽をもたらす一番の手助けは、いつの世でも智慧(ちえ)の力なのである。

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

先日、たまたまなのですが不思議写真の方のアカウントで




 


私もこんなこと呟いてました (///∇//)。
でもお釈迦様のような立派な意志も無く(笑)、ただそういう風にしか生きられへんかったってだけの話なんですけどね(///∇//)。

そういう風にしか生きてこれなかったお蔭で?新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に因る様々な変化も、「はいはい♪」という感じで(笑)、受け入れることが簡単だったのかもなーって。

世の多くの方々が望む事とは真逆の道ばかりを選択してきて(笑)、なんていうか、どんどん放棄してきただけなのですが(笑)、今回の変化の時も「なんでそんなにメンタル強いんですかぁ?」って呆れ気味に言われたくらいでした(///∇//)。

いろんな苦しみが人間には在ると思うのですが、老いや病、人間関係などの悩みも、最終的には「自分のものの見方への執着」が生み出すのかなーと思いました。

自分のものの見方を変えようとせず、老いや病を受け入れられなかったり、他者を否定してコントロールしようとしたり。

こんなこと書いてますけど煩悩の塊の私です(///∇//)。まだまだ放棄できないことや、執着していることも多々あります(笑)。

でも現実世界は外界の「安心・安定」の時代でなくなったことは事実ですので、寧ろ今が、変えるチャンスなのかもしれませんね(*´▽`*)。

あ。不思議写真のアカウントと分けているのは、作品を買えば運気が上がる!金運が上がる!とか思われたくないからです(笑)。

そういったお商売をされるのは全くの自由ですので、とやかく申し上げる気も毛頭ございませんが、私が感じている目に見えない世界には「運気」も「金運」も存在しません(≧▽≦)。

ただ、「自分が変化していく」だけです。

あくまでも私が感じている目に見えない世界の話ですが、運気や金運って人間界だけのものですので、限りなく人間に近い、「強欲」や「依存」の存在達が関わってくることになりますから、お薦めはしません(笑)。

どうであれ、「自分のものの見方」ひとつで、外界は変えられるんですよね(*´▽`*)。

8月に入って暑い日が続いておりますので、皆様もマスクに因る熱中症などにも十分にお気を付けて、どうぞご自愛くださいませ。




2020年7月17日金曜日

精神の旅

はうっ!(@ ̄□ ̄@;)!!
気付いたら7月も半分を過ぎているではございませんか!

そんなバナナ。。。(´・ω・`)。

すっかりご無沙汰してしまいました💦


お店の作品も粛々と作らせていただいているのですが、
夏用の部屋着が。。。もう20年以上は着ていると思うのですが、ことごとく破けてきてしまって💦
そちらも粛々と作らせていただいております💦

なんか最近は同時期に「もうあかん」ってなることが多くて、というか殆どで(笑)、
昨年かなー?雪駄やサンダルやスニーカーやヒールも履物という履物がいっぺんに”崩壊”って感じで壊れたんですね(///∇//)。

破けるとか解れるとか穴が開くとかじゃなくて本当に”崩壊”して(笑)、修理できるような状態ですらなくなって、我ながらビックリしました(///∇//)。

洗濯機と炊飯器も同時に凄い音がするようになって(笑)、こちらも古かったので無理もないのですが、今回の部屋着といい、いっぺんに南無南無になるので「え?え?」って感じになってしまいます(///∇//)。

お蔭様で軽くて涼しい素敵な生地で、パンツ(ズボン)を作らせていただいています♪雨の日が続きますと洗濯ものが乾かないので、あと2~3枚ほど縫う予定です♪

そういえば今年の梅雨は京都とは思えない爽やかさで(笑)、「え?秋なの???」って思ってしまうくらいの心地よさです(≧▽≦)。

本日は例年であれば祇園祭の鉾巡行の日ですが、今年は徒歩での巡行が行われました。例年ほどの賑やかさや華やかさはありませんが、1ヶ月間続く祇園祭は粛々と進められています。

「観光公害」と呼ばれた頃から比べれば人出は減ったのかも知れませんが、「え?自粛って何?」って思ってしまうくらい、やっぱり人出は多いです(笑)。

ということで?今年の4月17日の京都新聞に載っていた荒俣宏(あらまた ひろし)さんのコラムを、ちょうど3ヶ月後の本日にご紹介です(≧▽≦)。

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆゚

街というのはもともと、人を集めて住まわせるところだった。「ちまた」という古いことばがあるけれども、これは「股になった(分岐した)」道を意味する。分岐した道が何本も交われば、人も多方向から集まり、やがてそこに住みはじめる。人の出入りが街をつくるのであって、そこには要も不要も、あるいは急も不急も区別がなかった。(中略)

日本人には旅の文化がある。暇ができると旅に出る。それもジャルパックで団体の海外旅行というお手軽なものだけでなく、自己をみつめ、自然を観察する「漂泊の旅」も、人気があった。島崎藤村が「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ」と詠じたように、不要不急を飛び越えて、侘び寂びの心境をもとめた。「遊子」とは遊んでいる子供ではなく、独り旅する人という意味だ。道理で、「遊」と「旅」は字形がよく似ているわけだ。

中国の字源論だと、「旅」は集団を作って先頭に旗を立てて道をすすむ形だそうだ。しかし、「遊」のほうはたった一人で道をすすむ形であり、「子」の字が「独り」を表わすらしい。しかも独りで旅するのは神の旅であり、自由にどこでも行ける。だから「遊ばす」という尊敬語も生まれた。

これに対し、「旅」のほうは軍隊用語に「旅団」という語があるとおり、整列して規律を保つ軍隊の行進である。どちらにも旗が関係するので、団体旅行のガイドが旗を持って先導する姿は偶然ではないかもしれない。

こうした旅行を可能にしたのが、道である。この字も「遊」に似ているが、首があるのは、これを掲げて邪霊を祓いながら異界へ踏み込む呪術を意味したらしい。そうやって、人が住める街にしたのだ。(一部抜粋)

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆゚

あらまあ。Wikipediaをリンクしようとして読んでみましたら、荒俣宏さん、戸籍上は今日がお誕生日だそうです。おめでとうございます(≧▽≦)。生まれてきてくださってありがとうございます(≧▽≦)。

本を買う為に殆どの生活費を切り詰めていて、お風呂屋さんに行くお金を節約したくて、公園の砂場で砂を浴びていたというお話を聞いた時にはビックリした荒俣宏さんです(≧▽≦)。

このコラムの中で、「独りで旅するのは神の旅であり、自由にどこでも行ける。」とあるのですが、そうだなー。独り以外では、必ずそこにルールや「合わせる」という行為が生まれて、完全な自由では無くなりますよね。

「遊」と「旅」の字形も確かに似ていて、「旅が遊び」であると共に、「遊びも旅」なのではないかなーと思いました。遊ぶことそのものが、精神を旅させるのではないかなーと。

最近思うのですが、人間も動物タイプと植物タイプがあって、動物って食べ物や環境を求めて移動するんですけど、植物って環境の変化に合わせて自分を変えていきますよね。「旅が遊び」は動物タイプで、「遊びも旅」は植物タイプかなーって。

よく「旅をしろ」って大人っぽい作家さんとか仰るんですけど(笑)、私はそれほど旅に萌えないというか(笑)、子供の頃も渋々行くって感じで、大人になってからも必要に迫られないと行かないって感じなんですよね(///∇//)。ものすごい方向音痴というのもあるかもしれませんが(笑)、行った先でも「へー。(・∀・)」って(≧▽≦)。

場所とか景色とか、何処に居るかというのは、私にとってはあまり重要ではないことなのかも知れないなーって。

「こうした旅行を可能にしたのが、道である。この字も「遊」に似ているが、首があるのは、これを掲げて邪霊を祓いながら異界へ踏み込む呪術を意味したらしい。」とありますが、道なき道を行くというか、道を創るということは、”異界へ踏み込むこと”なのかも知れませんね(*´▽`*)。

2020年5月14日木曜日

映画「どこに出しても恥ずかしい人」とちあきなおみさんのこと。


なんだかすっかりご無沙汰してしまってすみません(///∇//)。

そしてお久しぶりなのに、今回は「死」に関する記述が増えると思いますので、読みたくないなと思われる場合はスルーしてくださいませ。
また次回のブログでよろしくお願い致します(*´▽`*)。


似てない似顔絵シリーズで友川カズキさんです(≧▽≦)。
映画「どこに出しても恥ずかしい人」を”仮設の映画館”で観ることが出来ました♪



新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で、映画館もお休みになっていたのですが、インターネットで”仮設の映画館”が開館して、「好きな映画館にお金を払って映画を観る」という事が出来るようになりました♪

ミニシアターって素敵な映画がかかる事が多いので観に行きたいなーって思っても、ミニシアター故のスケジュールで日にちや時間が合わなくて諦めることが多かったんですね。

それが”仮設の映画館”の登場で、好きな時に好きな映画を観ることが出来るなんて!(≧▽≦)。初めて聞いた時は夢のようや~:*:・( ̄∀ ̄)・:*:って思いました(笑)。

初めてでよくわからないままに進んでいったので、京都の出町座さんにお金を払って観ようと思っていたのですが、何故か?元町映画館さんで観ることになりました(笑)。24時間以内なら繰り返して観ることが出来て、これまた総入れ替え制になる前の映画館のようで嬉しくなって、もちろん、また観ました(笑)。

映画は友川カズキさんの日常のドキュメンタリーで、私が友川カズキさんを知ったのは、たぶん「3年B組金八先生」のライブシーンでだったと思いますが、その頃のままに、パンクロックな友川さんが存在していました。

「友川カズキさんみたいになれそうにもないしなりたいとも思わないし、友達になりたいとも思わないけど、友川カズキという存在が生きていてくれるだけでいいのだ。」って感じの映画の感想がTwitterで流れてきたことがあるのですが、まさしく、そんな感じでした(≧▽≦)。

唯一無二。友川カズキさんは友川カズキで在るが故に友川カズキで在り、それ以外の何者でもないし何者にもなろうとしないところが友川カズキさんなのだ。押忍。

映画の中で行きつけの居酒屋さんの店主さんが、友川さんは「そこらへんのおっさんにも大島渚監督にも同じ(態度)なの」と仰っていましたが、息子さん達への接し方も、そんな風に感じました。

26歳の息子さんに、「50歳くらいになって、人生とは?って考えればいいんだよ。そしたら人生って、何でも無いから。」って話される姿は、なんか仙人さんみたいに見えて(笑)、競輪で当てたお金を見せる時には無邪気にはしゃぐ姿が子供さんみたいで(笑)。

お金が手に入ったことが嬉しいというよりも、「競輪で当てたってことが嬉しい」って感じがしたんですよね。まぁお金が欲しければ、とんでもない才能をお持ちの方なので、いくらでもその才能を売り飛ばせばお金にはなるのでしょうが、友川カズキさんですからね(≧▽≦)。

パーティに行くといつもケンカになるから、一切パーティには行かなくなったって仰っていたのも、パーティって「自分を売り出そう」とか「顔を売って仕事に繋げよう」とか、「この仕事にお金を出してもらう為にあの人に近づこう」とかって下心のある方たちが集まる場であることが多いので(偏見)、無理も無いなと思いました(笑)。

バイバイ☆ミチロウ/パンク仰げば尊しにも書かせていただいた遠藤ミチロウさんともよく共演されていて、「ああ。やっぱり惹かれる人たちって繋がっているのだな。」って思いました。

ちあきなおみさんにも曲を作っていらっしゃって、何年か前にちあきなおみさん特集がテレビで放送された時に改めて凄い歌い手さんだなぁと思ったのですが、小さい頃には周りの大人の男の人たちが「ちあきなおみは別嬪やなー。」という言葉に「え?そうなの?」って思ってしまうくらい、その魅力がわかりませんでした(笑)。

私が子供の頃にテレビやラジオで流れて来る音楽って、愛だの恋だの失恋だの別れだの未練だのって曲ばっかりで(笑)、リズムやメロディは楽しかったのですが、歌詞の内容は全く理解できてなかったのです(笑)。

でもちあきなおみさんの歌唱力と共にその演技力・表現力には圧倒されていました。友川カズキさんが書かれた曲の「夜を急ぐ人」でのシャウトにも、日本人離れした情念の表現力を感じましたねー。


伝説の「おいでおいで」のシーンのつもり。。。なのですが。。。なんでこんな絵になってしまったの?って自分でも思ってしまうくらい、ちあきなおみさんじゃない(≧▽≦)。

鬼気迫る。。。そんな表現が子供騙しに感じるくらい、ちあきなおみさんの迸る情念は、美しい狂気でもありましたね。
普段はホワっとした表情の方なのに、曲に入ると顔つきがガラリと変わって。

あれだけの才能を持ちながら、パートナーを亡くされて以来、一切表舞台に立つこともなく、喪に服し続けるかのような生活を送る姿も、狂気のような情念を感じます。闇に咲く、黒い花のような美しさを持って。

友川カズキさんも、弟さんを31歳で亡くされているんですよね。線路に身を投げられて。そのご遺体と対面した友川カズキさんは「無残の美」という曲を書かれています。

詩を書いた位では間に合わない
 淋しさが時として人間にはある
 そこを抜け出ようと思えば思う程
 より深きモノに抱きすくめられるのもまたしかりだ

 あらゆる色合いのものの哀れが
 夫々の運を持ちて立ち現れては
 命脈を焦がして尽きるものである時
 いかなる肉親とても幾多の他人のひとりだ

その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 今もくれんの花が空に突き刺さり
 哀しい肉のように 咲いているど

 阪和線富木駅南一番踏切り
 枕木に血のりにそまった頭髪が揺れる
 迎えに来た者だけが壊れた生の前にうずくまる
 父、母、弟、兄であることなく

最後まで自分を手放さなかったものの
 孤独にわりびかれた肉体の表白よ
 水の生まれ出ずる青い山中で
 待つのみでいい
 どこへも行くな
 こちら側へももう来るな

 その死は実に無残ではあったが
 私はそれをきれいだと思った
 ああ覚 そうか死を賭けてまでもやる人生だったのだ
 よくぞ走った
 走ったぞ
 無残の美


「無残」という言葉には”いたましいこと””憐れなこと””残酷なこと”という意味もありますが、元々は仏教用語で、”仏の教えを破っても恥じない心のこと”という意味もあります。

教えよりも、その人の人生にとって必要なことって、あるのかも知れませんね。責めることなく、「よくぞ」と称えるように。







2020年3月16日月曜日

三島由紀夫さんのリスペクトと純粋



似てない似顔絵シリーズの三島由紀夫さんです(///∇//)。


リラックマの2Bの鉛筆で、しゃこしゃこ描きます。


(●´ω`●)ゞ

先日、爆報フライデーというテレビ番組で、三島さんと東大生1000人との討論の様子が放映されたのですが、

それまでの私の、「三島由紀夫」という方に対しての概念を覆す映像でした(ちょっと大層に書きすぎ(≧▽≦))。

10代か20代の頃に三島さんの小説を読んだのですが、なんていうか装飾的?デコラティブ?な感じがしてたんですね。当時の雑誌に載っていた三島さんのお写真も、日本刀を構えて筋肉ムキムキの体を誇示しているような、装飾的でデフォルメされたようなお写真が多かったように思います。「ギャグかな?」って思ってしまうくらい、カッコつけてる感じだったんですね。

んー。何故?国内外の沢山のアーティストさんたちが三島由紀夫という方にそれ程までに惹かれるのか?が私には理解できなったんですね。

学生運動が盛んな時期の、血気盛んな東大生1000人を前に、たった一人で乗り込んだ三島由紀夫という人は、力んだ様子もなく、学生たちの思想へのリスペクトを語り、まっすぐな澄んだ瞳でご自身の思想を語り。その姿が映し出されますと、なんという純粋さと品なのだろう!ってビックリしました(笑)。

そりゃあ世界的なアーティストさんたちも惚れますよね(≧▽≦)。

三島さんのその映像での姿と、作品やお写真とのイメージが違い過ぎてビックリしたのですが、それこそが三島さんの表現の在りようであったのだなーと思いました。

現代から見ますと過剰なくらいの演出は、三島さんの純粋さ故の表現であったのかなーと。茶目っ気たっぷりの(≧▽≦)。

ざっと検索してみますと、肉体へのコンプレックスから体を鍛えたり武道を始められたり。それでもあまり武道も得意にはなれなかったようですが、三島さんにとってはそれは問題ではなかったのかも。


改めて顔写真を見ていますと、どれ程カメラを睨みつけていても、その瞳の愛くるしいこと(≧▽≦)。ちょっと不安げで頼りなげな目は、相手の警戒心も解きますよね♪

子供の様に言葉を装飾して遊び、子供の様に体現することを楽しみ、子供みたいに過剰な演出を喜んでいらっしゃったような気がします。

三島さんが愛されたもう一つの要因は、他者に対するリスペクトだと思うんですね。番組の中でMCの爆笑問題太田さんが、「ネットだと匿名で顔も出さないから”死ね”とか言えちゃうけど、誰にもバレないと思っていても、それを言った自分のことを自分は知ってる訳だから、”自分はそういう人間なんだ”ということを一生背負っていく」って感じの事を仰っていましたが、

「自分は良いことをしている」「正しいことを言っている」と、自己陶酔しながら全く悪気なく、無自覚に他者の尊厳を踏み躙るという行為もよくあることですよね。私も気を付けねばですが💦。

先日の紙の方の京都新聞に、「困窮者を招待するレストラン」というフランスでの活動が掲載されていましたが、「美食に縁のなかった人々が、給仕に上着を脱がせてもらい、一皿ずつサービスを受ける。尊厳をもって遇されることで、生きる自信を取り戻してもらいたい」という理念で、女優さんのマリオン・コティヤールさんもボランティアとして登録されています。

毎晩、70~80人の”社会的疎外者”である”招待客”にサービスを提供していらっしゃるのですが、「施し」ではなく、「招待されたお客様」としてもてなされることが、”どれほど心の救いになるか。”

他者をリスペクトすることは、自身のことをリスペクトすることでもあるのだなぁと思いました。三島さんはリスペクトすることでリスペクトされていらっしゃったのだなぁと。
媚でもなく、忖度欲しさでもなく。

主義思想に関しては今も「?」という感じなのですが(笑)、たぶん三島さんにとっても主義思想はたいした問題では無かったのではなかろうか?と思っています(≧▽≦)。